ダンの神

アモス8:14「サマリヤの罪過にかけて誓い、『ダンよ。あなたの神は生きている』と言い、『ベエル・シェバの道は生きている』と言う者は、倒れて、二度と起き上がれない」
ダンの神というのもおかしい表現ですが、イスラエル王国エルサレムがないために、イスラエルの民がエルサレムまで礼拝を捧げなければなりませんでした。ヤロブアムはそのことを危惧し、イスラエルの民がユダ王国まで行くなら心変わりをして、ユダに民が流れていくことを恐れたのです(1王12:27)。そこでベテルとダンに金の子牛を据え、イスラエルが拝むべき神はこの子牛だと民に教えたのです(1王12:29)。このことは大きな罪となりました。アモスの預言にもあるように、子牛を拝んだ人々は倒れ、二度と起き上がれないようになり、ダン族もこの罪のために黙示録にある12部族の表記からは名前が消えています(黙7:5)。イスラエルは長い間、子牛のあるベテルとダンの祭壇に捧げものをし、主の教えに背いたのです。それでも何人かの王は主に立ち返ろうとしましたが(実際にはヨアシュぐらいしか思い当たりませんが)、ほとんどの王はヤロブアムの道、すなわちダンとベテルにある金の子牛を拝むことを止めなかったのです。そのためにイスラエル王国の捕囚はユダ王国よりも150年も早く起きました(サマリヤ陥落BC722年に対しエルサレム陥落はBC587年)。主の怒りが限界まで達するほど怒らせてはいけません。限界に来る前に悔い改めるなら、主の心も変るに違いありません。