マラき1章 もし、わたしが父であるなら

マラ1:6「「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。―万軍の主は、あなたがたに仰せられる―わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか』と」
マラキの預言の特徴は、主の厳しい問いかけに対してイスラエルの民が「いつ」とか「どのように」という反論をしているところです。あたかも主の前で自分たちには非がないような言い方ですが、主は容赦なくイスラエルを糾弾します。「もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか(6)」は、マラキ書の最後「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる(4:6)」につながっています。主はイスラエルの民が神をさげすみ、汚れたいけにえを捧げ続けたことを知った上で忍耐されていたのです。(7-14)。それは、いつかは思い直し、悔い改めて聖い、傷のない、律法に書かれている通りのいけにえを捧げてくれるに違いないという神の信仰でもあったのです。主の言い分は違ったいけにえにとどまらず、主のものを盗んでいることまで言及しています(3:9)。しかし、子は父の思いを理解せず、その距離は離れていく一方でした。マラキは預言者エリヤが再び遣わされることを預言した書です(4:5)。イエス様はエリヤは来たと言い(17:12)、マラキの預言は成就しました。今も父は子の心が向いてくれることを願っています。