マラき3章 わたしのものを盗んでいる

マラ3:8「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである」
十分の一については多くの議論があり、今だにその決着はついていませんが、日本人なら税金や年金、諸費用を引いた手取りなのか、総額なのかは心を悩ませる問題です。また、十分の一ではなく、十分の二を捧げるともっと祝福を受けると言う人もいます。新約にはその規定が書かれていないと否定する人もいます。しかし、教会運営には献金が不可欠です。初代教会では、使徒たちは持ち物を売って寄付し、必要に応じて分配されていたと記されています(使4:35)。本当に兄弟姉妹が集まり、各自財産を持ち寄って平等に分配することに賛同するなら初代教会のようにすれば良いでしょう。旧約であろうが新約であろうが、神が「わたしのものを盗んでいる(8)」と言われるのなら、盗みをやめなければなりません。新約ではからだを生きた供え物として捧げるように言われています(ロマ12:1)。それ以外に食べ物に関する問題でパウロは「良心」に従って食べるかどうかを判断しなさいと言っています(1コリ10:25)。献金も何の十分の一でなく、「良心」に従って、神から盗んでいないという平安があるならそれで良いと思います。それよりも自分を捧げることの方が大事だからです。