ヘブル2章 人間が何者だというので

ヘブ2:6「むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう」
「ある箇所」は詩編のことで、「ある人」はダビデのことです。詩編には神が人に心を留めることを不思議に思う詩がいつくかあります(詩7:17、8:4、144:3)。たとえ、神が人に心を留められたのだとしても、人が経験する苦しみを知るすべがありません。フランスのマリー・アントワネットは市民が飢えてパンを要求することが理解できず、「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と言った逸話が残っています。高みにいる人が、下々の生活を知ることなどできないのです。ネブカデネザル王が自分の繁栄を見て、誇ったときに神は彼の理性を奪い、野の獣とともに7年間を過ごした記事が預言書にあります(ダニ4:30-33)。ネブカデネザルに理性が戻ったときに、永遠に生きる方を賛美したと書かれています(ダニ4:34)。栄華を誇る国の王が、獣と同じ生活などできるはずがありません。それは神がそう仕向けたからです。イエス様はご自分が神であられるのに、神であることを放棄できないとは考えずに人と同じ肉体を持たれました(ピリ2:6-7)。なぜなのかはわかりません。まさしく「人が何者だというので、あなたがこれに心に留められるのでしょうか」という最初の疑問に戻ります。