民数記15章 自分たちの過失のために

民15:25「祭司がイスラエル人の全会衆の贖いをするなら、彼らは赦される。それが過失であって、彼らは自分たちの過失のために、ささげ物、主への火によるささげ物、罪のためのいけにえを主の前に持って来たからである」
過失か故意かは現代の法律でも裁量が変わってきます。過失致死や過失傷害は、その過程で意図的なものかどうかを判断しなければなりません。しかも、これらのことが命じられたのは「わたしがあなたがたを導いて行く地にあなたがたが入り(18)」とあり、今から40年も先の話をしているのです。すでに神はイスラエルの民を40年荒野で過ごされることを決定しておられます(14:34)。それは約束の地に偵察に行ったときに神に対して彼らが不満を漏らしたからです(14;27-30)。今から荒野でイスラエルの民の再教育が行われようとしています。この過失の対する定めもその中の1つです。まずイスラエルの民が請願を果たすことと(3)、過失による罪が挙げられています(24)。気づかず、あやまって失敗することは人間なら誰でも経験することです。そのことを早くから示されているのは、主のイスラエルの民に対する配慮だと思います。さらにその配慮は在留異国人にも及んでおり(26)、イスラエルがエジプトで在留異国人だったことを忘れないようにされています。そのようなときに安息日にたきぎを集める男が見つかります(32)。彼らはその男の処分もどうするかわかりませんでした(34)。1つ1つ十戒に沿って主の判断が明らかになってきます。パリサイ人が誕生するのはバビロン捕囚以降ですから、民数記の時代は律法が確立していく過程の時代だと言えます。