民数記31章 すべて火に耐えるものは

民31:23「すべて火に耐えるものは、火の中を通し、きよくしなければならない。しかし、それは汚れをきよめる水できよめられなければならない。火に耐えないものはみな、水の中を通さなければならない」
火で精錬されることは、信仰の試練にも例えられ尊いものだとされています(1ペテ1:7)。水は誰でもが通る、バプテスマを連想します。「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません(ヨハ3:5)」とイエス様が言われたように、最初は母の胎内から生まれるときと、二度目はバプテスマを通して生まれ変わるのです。この民数記のことばは、火が試練だとするなら、火に耐えるものとそうでないものがあるとも読めます。どちらも神の前に出るためにきよめられるものです。キリストを信じたときは、水のバプテスマを通って誰もがキリストの救いにあずかるものになれます。ちょうど、ノアの洪水のように全世界が水を通ってきよめられたのと同じです(創6-9章)。しかし、バプテスマと違い全ての人が火に耐えられるわけではなさそうです。現在の天地は火によってさばかれるために保たれているとペテロは語っています(2ペテ3:7)。やがて来る艱難の時代に、クリスチャンはさっさと天に引き上げられ、艱難の苦しみは受けないと言う人もいますが、神が用意した火の精錬を受けないままでいるのでしょうか?試練に耐え抜いた人には、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けることができます(ヤコ1:12)。火を通らず、水だけ通った人にはその冠は受けられないのでしょう。火に耐えうるかどうかは、その人の信仰によります。