火を吹きつけて溶かすため

エゼ22:20「銀、青銅、鉄、鉛、すずが炉の中に集められるのは、火を吹きつけて溶かすためだ。そのように、わたしは怒りと憤りをもってあなたがたを集め、そこに入れて溶かす」
溶かすのはもう一度練り直して新しく形作るためです。ゼカリヤでは「その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす(ゼカ13:9)」jとあり、主は人を練り直したり、ためしたりすることがわかります。さらに「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主(箴17:3)」とも書かれ、ためされて初めて金としての真価がわかるのです。主は国を滅ぼさないように「石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めた(30)」とあり、最善の努力を惜しまずしてくださっています。歩み寄るのはいつも主のほうからで、それに気づくかどうかは人が持つ信仰にかかっています。ペテロは「信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く(1ペテ1:7)」と教え、ヤコブは「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい(ヤコ1:2)」と語っています。バビロン捕囚はさばきの結果ですが、それでもこれを機会とし、ユダヤ人を溶かしもう一度チャンスを与えようとしているのなら、まだ希望は持てます。試練は苦しいけれども、主が見捨てていない証拠でもあります。