申命記8章 人はパンだけで生きるのではない

申8:3「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」
エス様が40日40夜断食したあとで悪魔の試みに会うことが書かれているのはマタイとルカだけです(マタ4:1、ルカ4:1)。パンはヘブル語「lechem(レハーム)」、ギリシャ語では「artos(アルトス)」が使われています。パンが旧約に登場するのはアダムが罪を犯したのち、「あなたは顔に汗を流して糧を得(創3:19)」の中の「糧」が同じ単語です。新約ではパン「artos」は99回使用され、やはり生活に直結した命を支えるものだったと言えます。イエス様が引用したのは申命記からですが、パンだけではないと主が言われたのは、イスラエルの民を苦しめ、試み、飢えさせて、何が最も大切なものかをわからせるためでした(2-3)。イエス様の40日の断食は、サタンが石をパンにせよという攻撃の口実を与えました(マタ4:3)。石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができなら(マタ3:9)、石をパンにすることもできたでしょう。聖書の中には石からアブラハムもパンも起こされた記述はありません。そのような無秩序なことをイエス様は望まなかったのです。ノアの洪水の前、天使が人間の娘と交わってネフィリムが生まれました(創6:4)。それは神のご計画とは姿も形も違うものだったので、洪水の要因の一つになりました。石をパンに変えることは、まさしくネフィリムを生み出すようなものです。たとえできたとしても、それが神のご意思かどうかは、しっかり判断しなければなりません。