申命記20章 実を結ばないとわかっている木

申20:20「ただ、実を結ばないとわかっている木だけは、切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまでその町に対して、それでとりでを築いてもよい」
まだ実のなる可能性があれば、取って食べれます(19)。しかし、実がもうならないのなら、切り倒す決断をしなければなりません。イエス様がエルサレムに行く途中でいちじくの木を見つけたことがありました(マタ21:19)。しかし、葉は色づいていても実がなっていなかったのでいちじくの木を呪ったのです。また、イエス様のたとえ話の中にぶどう園にいちじくを植えた人の話があります(ルカ13:6)。ぶどう園の主人は実のならないいちじくを切ろうとしますが、番人が1年だけ待ってくれるように頼みます(ルカ13:9)。申命記の命令も、イエス様の話も実を結ぶかどうかが鍵となっています。個人的には、木の話でなく、人間の話をしているように思えてしょうがありません。ある時期になるまで成長を待つだけでなく、実を結ぶかどうかが主にとって大きな関心事だと言えます。成長だけなら背も高くなるし、容姿も大人っぽくなっていくでしょう。しかし、実を結ぶかどうかは心の中の状態を指しています。もし、御霊の実をあてはめるなら、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠意、柔和、自制(ガラ5:23)となり、これらの実がならなければバッサリと切り倒されてしまいます。聖書には神と共に歩むことだけでなく、神と交わった分だけ成長し実を見せることを主は期待しておられます。