私の好きな初なりのいちじくの実

ミカ7:1「ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようになった。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない」
ぶどうといちじくはよく一緒に述べられ、神の作物として考えられています(1王4:25,イザ36:16,エレ8:13,ホセ2:12など)。「私の好きな」の「好き」はヘブル語「avah(アバー)」が使われており、「渇望する」とか「切望する」という意味もあります。とても食べたいいちじくがないことは、イエス様のときにもありました。マルコによればイエス様はいちじくを遠くに見つけ「何かありはしないかと見に行かれた(マコ11:13)」とあり、季節はずれでもおいしいいちじくは食べたい果物だったようです。当時のイスラエル地方では環境の関係でぶどう、いちじくが主要な農作物で、現在でもイスラエルはハイテク農業で高い水準のばれいしょやトマトを生産しています。神が実をつけるのを待ち遠しく思ういちじくは、神に誠実に礼拝を捧げるイスラエルのたとえではないでしょうか?しかし、神の前にはいちじくの実はなっていませんでした。イエス様のときを彷彿させるこのみことばは、ユダヤ人の今後をも意味する預言なのではないでしょうか?