申命記32章 復讐と報いとは、わたしのもの

申32:35「復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ」
なぜ復讐と報いが主のものであるとわざわざ言わなければならないのでしょう。それは仇が誤解して「われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない(27)」と言うといけないからだとあります。また、イスラエルの民には「「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ」と言ってはならない(9:4)」とも言われています。敵であろうが、イスラエルの民であろうが、何かを成功させたならそれは自分たちの功績だと思ってはならないということです。全ての栄光は主がお受けになられるはずのものです。その根拠になるのがこのみことばです。世界のあらゆる出来事の背後には神のご計画が働いています。たとえ相手が間違っていたとしても、自分の判断で制裁を加えてはいけないのです。しかし、法制度がなければ社会が立ち行かなくなるのも事実です。ここでは主が永遠に生き、敵に対して復讐をされることが明言されています(40-41)。それゆえに諸国の民は喜ぶのです。「主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから(43)」とあるように、そのときが来るまで待たなければなりません。逆にいうと、ユダヤ人はこのみことばのゆえに終わりの時代まで滅びることはありません。約束を全部異邦人が受け継いだのではなく、ユダヤ人にしかかなえられないものもあるのです。