ルカ15章 いなくなっていたのが見つかった

ルカ15:32「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」
2020年に横田滋さんが亡くなりました。もし、北朝鮮に拉致された娘めぐみさんと再開できていたら、どれだけ感動し、喜べたでしょう。放蕩息子のたとえは、弟が放蕩したことが問題ではありませんでした。父の前からいなくなったことが父の心を最も痛めたことです。15章に書かれている、「羊」(4)、「銅貨」(9)、「放蕩息子」の例えはすべて失ったものが帰ってくる話です。イエス様は12弟子を遣わすときに「イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい(マタ10:6)」と言われました。また、カナンの女が娘をいやして欲しいと頼まれたとき「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません(マタ15:24)」と言っています。さらに、ザアカイの家では「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです(19:10)」と言われています。「失われた」とは、神のもとから離れてしまったことを指します。そして、神の愛から遠ざける原因を作ったのはパリサイ人たちだとわかっていたのです。どんなに儀礼的に安息日を守ったとしても、病気や困窮している人を「仕事をしてはいけない」という理由で助けないことがあってはいけません。ユダヤ人たちに染み付いた、「律法さえ守れば」というおかしな考えにイエス様は警鐘を鳴らし続けたのです。