2コリント3章 顔におおいを掛けた

2コリ3:13「そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません」
確かに主と語り合ったあとのモーセの顔は輝いていました。そのためモーセは自分の顔におおいを掛けていました(出34:35)。モーセが生きているあいだすべてで、顔におおいを掛けていたわけではありません。主と語り終えてしばらく時間が経つと、その輝きは消えたはずです。モーセの周りの人たちはまぶしがったため、おおいを掛けたのだと思います。おおいをかけることは、栄光の輝きを見せないようにしていることです(7)。パウロは自分はそのようなことはしないと言っているのです。モーセから始まった石に刻まれた十戒は、人を導くためのものでした。しかし、律法は罪の意識を生じさせるものであり(ロマ3:20)、罪が増し加わるところに救いがなければ人はただ死んでいく存在にすぎません。そのような律法に仕えていたモーセでさえ、顔をおおわなければならないほどの栄光が与えられるのなら、御霊に仕えるコリントの教会の人たちにはどれだけの栄光が与えられるでしょうか。「栄光から栄光へ(18)」とは、律法の時代から御霊の時代へ移ろうとも、変わらぬ主の栄光が人を通して輝く意味だと思います。