栄光から栄光へと

2コリ3:7「もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば」
モーセは主と会話したときに、主の栄光が自分の顔に移って輝いていたことに気づきませんでした。しかし、山を降りてイスラエルの民と語ったときに、自分の顔が異常に光っているのに気づくのです。彼は主と会話する以外は顔におおいをかけていました(出34:35)。パウロはこの話をしているのです。モーセ十戒の石板をもらいに山に登り主と語らいました。石に刻まれた文字による務めとは十戒以降の律法の時代のことです。律法は永遠の命をもたらさず、罪を定め人は死ぬことしかできませんでした。死の務めとは、律法に仕えた者たちすべての人たちの働きのことです。モーセは律法のはじめに関わった人物で、彼もまた死にました。そんな死んでゆくモーセにも主の栄光は輝き、主と会話したモーセにその栄光は写っていたのです。もちろんモーセの顔が死ぬまで輝いたわけではありません。しかし一時とはいえ、主の栄光を受け顔を輝かせたモーセの顔を見ることもできなかった、とするなら、永遠の命に仕えるクリスチャンがキリストの栄光を受けるなら、どれだけ輝くことでしょう。栄光から栄光へと…とは、教会の柱になる言葉だと思います。