2コリント4章 死ぬべき肉体において

2コリ4:11「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです」
私たちはいずれ死にます。人は土から造られた器にすぎません。本来なら死んでしまうものを輝かせるのはあり得ないことです。なぜなら、人はやがて死に土に帰るからです。そのような土の器(7)に過ぎないものが、輝けるとしたらどうでしょう。それは人が称賛を受けたり、何かを成し遂げたり、巨万の富を稼ぐようなものではありません。「光、あれ(創1:3)」と神が言われた瞬間から、やみを照らす光はキリストを信じる者を通して輝くことが決まっていました(6)。パウロが創世記の最初のことばを引用したのは驚きですが、世の初めから光り輝かせるものは何かをお定めになっていた神のご計画が、「光が、やみの中から輝き出よ(6)」ということばに集約されているのです。人が死ぬことは神によって定められています(ヘブ9:27)。人が死ぬのを見た人は、体が機能しなくなり、やがて土に帰るのを目撃します。そこには「見えるもの」に目を留める人たちの限界があるのです。パウロは人が死ぬのは一時的なものであり、見えなくなってからのほうが長いと説明しています(18)。「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています(16)」、これがパウロが持っている希望です。