2コリント11章 あなたがたはみごとにこらえている

2コリ11:4「というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです」
コリント教会の人たちの純粋さが伝わってきます。「こらえる」はギリシャ語「anecho(アネホ)」が使われており、「耐える」とか「我慢する」の意味があります。パウロが心配しているのは、コリントの人々に、変な教えや教義、間違った霊を授ける者が信者の中でうろうろしていたことです。また、同じ単語が使われている別の個所では「奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても(20)」とあり、コリントの人々はこのような扱いにも耐えていたのです。もし、パウロが言うようにサタンがコリント教会に入り込み、パウロが伝えた福音とは違うものを教えたとしたら(3)、ひょっとしたらその教えになびいてしまう人たちもいるかもしれません。しかし、コリント教会の人たちは踏ん張りました。パウロの説明によれば、パウロ並みに伝道し、開拓し、教会を広げてきたと自慢する者がいたようです(12)。パウロは彼らを「にせ使徒」だと糾弾しています。サタンでさえ御使いに変装できるのなら、そのようなにせ使徒が現れても不思議ではありません。にせ使徒がヘブル人であり、アブラハムの子孫だと名乗るのなら、パウロも同じです(22)。そうやってにせ使徒が誇るのなら、パウロの肩書きは、半端ない学歴と経験があるのです。