コロサイ2章 肉体の苦行などのゆえに

コロ2:23「そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」
カトリックでは復活祭などの祭りで、十字架を担いだり、手に釘を打ったり、むちを打たれる行為をする人たちがいます。イエス様がかぶった、いばらの冠をかぶり、頭から血を流しながらパレード行進するのです。イエス様がなされた40日断食も、1つの信仰の証しとされ、それを耐え抜いた人は霊的であるというような風潮は、プロテスタントの教会内にもあります。これらすべてはイエス様が経験されたことで、聖書から離れていないようにも思えます。ともすれば、断食を否定しかねないようになるので、これ以上は控えますが、耐えなければならないことと、肉体に課した苦行とは違います。ある我慢を続けることが出来たら、パウロが言うように「賢いもののように見える(23)」のです。神から与えられる忍耐は、誰にでもその日その日にあると思います。パウロが言う「自分勝手な礼拝(23)」とは、「これを耐えることができれば」何かが成就すると思い込んでする行為です。パウロは「謙遜(23)」や「自己卑下(18)」も、注意する対象だと考えています。無駄に自分を低くして見せても、幾人かはだませても、キリストに割礼を受けた人たちには(11)無駄なことです。本当に評価されたいなら、人に仕える者になれば良いのではないでしょうか(マタ20:26)。