詩篇100篇 知れ。主こそ神

詩100:3「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」
「知れ」はヘブル語「yada(ヤダー)」が使われており、エデンの園でへびがエバを誘惑したときに「神のようになり、善悪を知るようになる(創3:5)」と言い、これが聖書の中で最初に使われた「知る」という語です。そして最も有名なのがソドムにいたロトを尋ねてきた神の使いに向かって、ソドムの住民が言った「彼らをよく知りたい(創19:5)」があり、この場合は肉体関係を迫る意味でした。日本語では「知る」ことは知識や記憶として、単に心に留める程度の意味になりますが、ヘブル語の場合はもっと深い意味になります。それは日本語の場合、ただ聞いて知っているだけでも「知る」という言葉を使いますが、聖書にある「主こそ神」であることを「知る」のは、神と自分が何らかの関係がなければ言えないことです。聖書を読んだだけで「私は神を知っています」とは言えません。聖書を読み、聖書に書かれている神と深い関係を持って初めて、「私は主を知っている」と言えるのです。少なくとも「yada」の意味はそういう意味です。「主」はもちろん「YHWH」のことです。日本語では「主」と訳したことで、主がその名前のように使われていますが、聖書に書かれているアブラハム、イサク、ヤコブの神のことです。聖書に書かれている神こそ、まことの神です。