1サムエル11章 サウルを王とした

1サム11:15「民はみなギルガルへ行き、ギルガルで、主の前に、サウルを王とした。彼らはそこで主の前に和解のいけにえをささげ、サウルとイスラエルのすべての者が、そこで大いに喜んだ」
王を求めることは必然でしたが、それは神の支配から人の支配に変わることで、主としては好ましく思っていませんでした(8:7)。それでもサムエルに対し民の声を聞くように命じ、そのかわり王がいかに民に対して強い権力を持つかを知らさせました(8:12-18)。それで少しは王を求めることをためらえばよかったのですが、イスラエルの民はますます王を求めるようになったのです。結果的には王を求めることは悪で、「私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです(12:19)」と後悔の念をサムエルに告げています。しかし、サムエルもサウルを主から示され、実質的には王制がスタートしてしまいました。実は現代にいたるまでこの罪は続いているのです。神を王とする国はなくなってしまい、王制の次には共和制、民主制、共産主義、独裁者支配などいろいろな形態の国が生まれました。選挙で選んだ国の代表が統治するのがよいのか、王が統治した方がよいのかはわかりません。どの仕組みにしても神が中心にあって、神が治める国はありません。イスラエルにしても大統領がいて首相がいます。サムエルの時代のイスラエルの民を責めることはできません。我々も同じ罪の下にいるのです。