エレミヤ16章 そんなものは神ではない」

エレ16:20「人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない」と」
ここで使われている「神」はすべて「elohiym(エロヒム)」が使われています。何の力も権威もないものを、あたかも万能かのように扱うのは人が犯しやすい間違いです。他の神を拝むのならいざ知らず、自分で得体のしれない何かを神格化し、拝み始めるのは心の病気とも考えられます。人は元来、神と交わるように造られています(創3:8)。神でないものを神に置き換え、目に見える形にしようとすることこそ、人は神と交わる対象だということを証明していると思います。なぜ、目に見えなければならないのでしょうか。見えなければ存在しないというのなら、聖書はいったい何なのでしょう。見えなくても、神の語ったことばがある以上、語った誰かがいるはずです。しかも神のことばは人の歯の浮くようなことではなく、むしろ人を戒め、怒り、罰することが書かれています。人が造った神ならば、もっと都合よく、拝みさえすれば人に幸福を与えてくれるように細工するでしょう。少なくとも、聖書の神は人の都合や考えに支配されることはありません。人が神を造っても、その神には何の力もないのです。ものも言えず、歩けず、いちいち運んでやらなければいけない神は(10:5)、神なのでしょうか。なにか困りごとがあるのなら自分で争えばよいのです(士6:31)。