1テモテ1章 教師でありたいと望みながら

1テモ1:7「律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません」
真実は1つのはずですが、世の中には多くの教派、教団があります。中には、明らかに聖書の教えから離れてしまっているものもあり、キリスト教を名乗りながら異端の信仰を持っています。パウロの言う「無益な議論(6)」は、そのまま教派の違いにつながり、そこには議論があり、ずっと平行線をたどっています。キリストを信じない人が、キリスト者が右の頬を叩かれるのを見たなら、左の頬を差し出すかどうかを見るでしょう(マタ5:39)。キリストの愛を語っている人なら、その私生活を見られて、本当に語っているとおりかを調べられると思います。もし、教師になりたいのなら、その人たちは「格別にきびしいさばきを受ける(ヤコ3:1)」ことを知っておくべきです。パウロは「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛(5)」が目標であって、この愛から脇道にそれて無駄な議論ばかりすることを警戒しています(6)。聖書の知識があっても、愛を知らない人が教師になるなら、大切な部分が欠落したまま教えていることになります。忍耐を養い、品格を身につけることはパウロも推奨していることです(ロマ5:4)。神の愛に触れることが難しいことだとは思えませんが、愛を知るために神が試練が与えられるのも事実です(ヘブ12:6)。