哀歌3章 ただ苦しめ悩まそうとは

哀3:33「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない」
2017年訳では「主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない」となっています。ただ、今回のバビロン捕囚は主が忍耐の限りを尽くして、辛抱した結果です。しかし、捕囚の中にあっても、主を呼ばわるなら主はその訴えを聞いてくださいます(56)。人が受ける苦しみが、神のご計画だと悟ることができるのはずっと後になってからです。哀歌はエレミヤの後文として編纂されていたことから、エレミヤが書いたのではないかと言われています。「私があなたに呼ばわるとき、あなたは近づいて、『恐れるな』と仰せられました(57)」とあるように、エレミヤは苦しさの中でも主を求め、恐れないようにと励まされています。その根拠となるのが、主が意味もなく人を苦しめ悩ませることがない(33)、というものです。どんなに苦しくても、主の名を呼び求める者を主が見捨てるこてはありません。それどころか「私のたましいの訴えを弁護して、私のいのちを贖ってくださいました(58)」とあるように、完全に信じる者を擁護してくださるのです。新約では御父の前で弁護してくださるのは、イエス様だと書かれています(1ヨハ2:1)。しかも、イエス様は弁護するのみならず、私たちのいのちを贖ってくださいました。まさしく哀歌にあるとおりです。