ゼカリヤ11章 それが主のことばであったことを知った

ゼカ11:11「その日、それは破られた。そのとき、私を見守っていた羊の商人たちは、それが主のことばであったことを知った」

「慈愛」と名付けられた杖を折ったとき、互いに愛する愛が失われたようなイメージがあります。「私はもう、あなたがたを飼わない。死にたい者は死ね。隠されたい者は隠されよ。残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい(9)」は、非常に厳しいことばで、羊飼いが職務を放棄してなすがままにする様子が描かれているようです。互いに相手の肉を食べるのは、殺し合うことです。死にたい者は死ね、とは自殺を助長しているようにも取れます。まさか、愛の神がそのようなことをするとは思えませんが、「慈愛」と「結合」の杖がつながっている限りそのようなことは起こり得ないのです。しかし、両方の杖は折られ(10、14)、主の忍耐を超えてしまいます。主は怒るのに遅いお方です(出34:6など)。それでもいつまでも黙っていることはありません。いつかは、その忍耐が限界に達し、悪に対してさばきを行なわれます。その限界はおそらく人間には計りがたく深いものだと思われます。死にたい者は死ね、と突き放すことばが主のものだと知ったとき、彼らの心にはどれだけの絶望があったでしょうか。もし、現代の我々にも同じことばが投げられるなら、想像しただけでも恐ろしくなってしまいます。そうならないためにも、日々主に近づいていたいものです。