ヨブ記20章 神を敬わない者の楽しみはつかのまだ

ヨブ20:5「悪者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみはつかのまだ」

友人ツォファルの慰めは、慰めというより訓戒に近いもので、彼自身は悟りの霊からヨブに語りかけていると言っています(3)。ツォファルによるならば、悪者が栄えたとしても地上にいる時間には限りがあり、彼とともに世代が交代していく中、その名前を記憶する者は誰もいないのです。時代が過ぎ去っていくなら、「彼はどこにいるのか(7)」と多くの人たちは不思議がり、かつて反映した悪者が存在したことだけが思い出されるのです。どんなに暴虐で贅沢を極めた悪者も「彼を見慣れていた目は再び彼を見ず、彼のいた所はもはや彼を認めない(9)」と時間とともに忘れ去られるのです。しかも、神がすべての彼の悪に報いるので、富も吐き出され(15)、彼が寄るべのない者を踏みにじって身につけた富も楽しみにはならず(19)、どんなにむさぼっても満ち足りることはないのです(21)。ヨブの繁栄がそのような悪からのもので、ヨブ自身がむさぼっている男ならばツォファルの言い分も正しいのでしょう。しかし、このツォファルの例えた悪者とヨブとではあまりにも違いがあり過ぎます。これではヨブを慰めるどころか、ヨブを罪に定めて神の罰を受ける者にしてしまいます。ツォファルの知識ではヨブに起きたことは理解できないのです。