ヨブ記25章 女から生まれた者が

ヨブ25:4「人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生まれた者が、どうしてきよくありえようか」

ビデダデの最後の訴えです。ヨブは神と討論したいと願うほど、自分の潔白を信じていました(23:4)。それはヨブには思い当たるところがなく、どうしても今回の一件の真意を神に問いたいと願っているからです。それでもビルダではヨブに「人はどうして神の前に正しくありえようか(4)」と諭しています。所詮、ヨブも女から生まれた者ではないか、女に罪が残る以上ヨブが正しく清い者であることは不可能だとビルダデは詰め寄ります。虫けらに過ぎない人の子がどんなに背伸びして、神に自分は正しいと主張したところで、人が義と認められるわけでもありません。神は人に律法を守ることで罪から離れることを命じました。しかし、律法自体を守ったところで罪が消えるわけでもなく、ましてや人を義に導いてくれるものでもありません(ロマ3:20)。神は約束を違わず、言われたことがすべて成就すると信じる信仰が義と認められるのです(ロマ4:21)。十字架以降ならば、キリストを信じる信仰によって義と認められるのです(ピリ3:9)。ただし、ヨブの時代にはまだ十字架は完成していませんから、神のことばに全権を委ね、自分の判断でなく、神が言われたことばに正しさがあると悟らなければなりません。ヨブは次第に神と自分の関係を見失っているように見えます。