レビ記1章 ささげ物をささげるときはだれでも

レビ1:2「イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない」

モーセの幕屋が完成し、その幕屋をどのようにして使うのかという説明が始まります。レビ記の最初には贖いのためのいけにえの捧げ方が書かれています。イスラエル人の「だれでも(2)」という書き方があるので、祭司だけがいけにえを捧げるのではなさそうです。また、いけにえの頭に手を置き、罪を移譲する様子から罪の贖いのいけにえだと考えられます(4)。そうすると何かしらの罪ある者たちが毎日のように天幕に来て捧げものをしたことになります。内臓と足は水で洗い、祭壇で焼いて煙にします(9)。主にとってこれはなだめの香りとなるとあります(9)。実際には内臓などを焼く臭いはけっして芳しいものとはいえませんが、神にとってはそれは、本来罪のために怒ることがなだめられるという意味だと思います。それにしてもおびただしい数の動物が殺され、そのたびに血を祭壇のまわりに注がれ(5)、祭壇の角には血が塗られます(4:7)。こんなことで本当に罪が消えるのかと思ってしまいますが、パウロは罪は除き去ることができないと言っています(ヘブ10:10)。ただ、唯一人の中で罪も傷もないキリストが捧げられるときに、罪は消えます(ヘブ10:12)。いけにえはやがて来るキリストのひな形だったのです。