民数記6章 その頭には神の聖別があるからである

民6:7「父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らのため身を汚してはならない。その頭には神の聖別があるからである」

バプテスマのヨハネもぶどう酒から離れていたことから、彼も生涯を通してナジル人であったようです(ヨハ1:15)。おそらくバプテスマのヨハネは死ぬまで髪を切らなかったのかもしれません。髪の毛に関しては士師記のサムソンが有名ですが、彼がデリラにそそのかされて捉えられたときには、彼の髪の毛は7ふさ切り落とされていたとあります(士16:19)。民数記の場合は、死体で汚された場合は神を剃らなければなりませんでした(9)。なぜ髪の毛なのかは、「頭には神の聖別があるからである(7)」と書かれているように、頭を人の考えで勝手に触ったりすることがないためです。その行為は、自分の思いを制御することにつながり、主がすべてを成してくださることを委ねる証しとなるのです。しかし、士師記のサムソンを見るとき、そのような請願を立てた者のようには見えません。それは、サムソンの父マノアが神の使いから命じられたように、ぶどうの木からできるものをいっさい食べずにいて(士13:14)、サムソンが生まれる前からナジル人の約束をしていたからです。請願が何かはそれぞれですが、サムソンの場合はイスラエルの解放でした。汚れから遠のくことでナジル人としての生活が始まり、主の前に強い酒、髪の毛を切らないことで成就に近づくのです。