詩篇16篇 ほかの神へ走った者の痛みは

詩16:4「ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません」

ほかの神とは世界中にある神々のことでしょう。日本人なら、子どもが生まれたなら神社へお参りし、死んだらお寺でお経をあげてもらい、結婚式は教会で、という具合に節操がありません。普段から神を求め、交わり、礼拝することは稀です。それでも日本の歴史の中でキリスト教が伝来したときは、多くの人がキリストを信じ拝んでいました。それはイエズス会の宣教師サビエルが布教したもので、教えそのものはカトリックのものでした。1517年にはルターの宗教改革が始まっており、贖宥状が売れなくなった当時の教皇レオ10世はほかでサン・ピエトロ聖堂の建設資金を調達しなければなりませんでした。このカトリックプロテスタントの対立はそのまま日本に波及し、オランダのヤン・ヨーステンとイギリスのウイリアム・アダムスの当時のヨーロッパ情勢を徳川家康に報告したことで、カトリックは問題視されるようになりました。同じ神を信仰しているようでも、裏には政治が見え隠れしているのは、ダビデの信仰とは違っているようです。純粋に神を信じ、褒め称え、神こそが救いであることを認めるダビデの信仰が神に受け入れられ、このように詩となって聖書に残るのです。決してほかの神に目を向けないことです。主は心の中を見られます。