詩篇93篇 聖なることが

詩93:5「あなたのあかしは、まことに確かです。聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。主よ、いつまでも」

エス様は聖なるおかたでしたが、律法学者やパリサイ人には律法を遵守しない不従順な者に映ったようです。人は自分の都合によって相手を見ます。それはフィルターのようなもので、世の中では容姿が良いほうが多くの人に好印象を持たれがちです。神は聖なるおかたで見ることも、触れることもできません。イエス様には触れようと思えば触れることもできましたし(マタ9:20)、声をかけて自分の声を聞いてもらうこともできました(マタ9:27)。多くの人をいやし、神の国を説いても、間違ったフィルターでイエス様を見るなら、たとえイエス様が聖なるおかたでも攻める対象になるのです。キリストにあって敬虔に生きようとしても迫害を受けてしまいます(2テモ3:12)。キリストの教えは神に属さない者たちにとっては不協和音でしかないのです。それでも迫害と患難に耐え、信仰を保つなら、神の聖さを持っていることにならないでしょうか。主が聖なるおかたであるから、聖さを保つ者が近づくことを許されるのだと思います。汚れた心を持つならば、神には近づけません。神は聖なるお方ですから、その聖なるお方がいにしえからとこしえまで居ておられるのは希望ではないでしょうか。