詩篇96篇 尊厳と威光は御前にあり

詩96:6「尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある」

英語では「尊厳」は「splendor(NIV)」となっており、「威光」は「majesty(NIV)」と訳されています。「尊厳」は辞書では「どことなくおごそかなこと」となっています。威光も尊厳も栄光のためにに輝き、近寄れないさまを表現したものだと思われます。聖書には至聖所に入るなら、大祭司は直接神の栄光を見ることができず、契約の箱にあるケルビムの羽が重なり合った隙間から主の声を聞くようになっていました(出25:22)。それは直接主の栄光を人が見てしまうなら死んでしまうからで、そのころは主の栄光の輝きは大きく、イスラエルの民を昼は雲の柱、夜は火の柱となって導いていました(出13:21)。しかし、約束の地に入り、指導者が不在となり士師の時代になるころには、神が直接語ることもなくなっていました。サムエルが生まれ神殿で仕えているころには「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった(1サム3:1)」とあります。また、モーセの時代にも主は人が自分の友と語るように顔と顔を合わせてモーセに語られた(出33:11)とありますが、モーセは主の栄光の姿を見せてくださいと頼んでいます(出33:18)。神はご自分の栄光を人を傷つけないように加減して見せることもできたように思えます。