詩篇124篇 生きたままのみこんだであろう

詩124:3「そのとき、彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき」

ダビデは「主が私たちの味方でなかったら(1)」という仮定で歌い始めています。「もし」には、そんなことはありえないけれども、という意味が含まれています。敵が自分を丸呑みにすることはありえませんが、敵がいろいろな攻撃を仕掛けてくることはありえます。そのときには、一時的に苦しみ、落ち込んだりしますが、主がいてくださるとダビデは言います。「大丈夫、神がともにいてくださる」という信仰があれば、神を信じる者にとってこれほど勇気付けられるものはないでしょう。ただし、神がいてくださるということをうわべだけで信じていてはダメです。本気で神は自分のために守ってくださるという信仰がなければ、ダビデの言うように生きたまま飲み込まれることになるでしょう。揺るぎない信仰は、神によって試されます。「主は私をきびしく懲らしめられた。しかし、私を死に渡されなかった(詩118:18)」とあるように、すべての試練から守られるのでなく、その人の信仰に合わせて試され、懲らしめるのです。もし、あっという間に試練が過ぎ去るなら、その人はまだ強い信仰を持っていないことになります。ひどい目にあっても、我慢して主が守ってくださると本気で信じる必要があります。