エゼキエル21章 さやに納められない

エゼ21:5「このとき、すべての者は、主であるわたしが剣をさやから抜いたことを知ろう。剣はもう、さやに納められない」

一度主のさばきが始まったなら、それは納まることはないという意味です。逆に言うなら、さばきのときまで神が出すサインを見逃さずに、きちんと受け止めていればバビロンが攻めてくることもなかったのでしょう。そのサインは預言者によって語られる神のことばにほかありません。エレミヤもエゼキエルも捕囚を体験しましたが、その何ヶ月も前に神のことばを聞き、民に語り続けていました。後世の我々は、ユダ国のバビロン捕囚を単に歴史の一幕だと考えずに、同じことが世の終わりに起きることを学ばなければなりません。主の怒りが頂点に達し、剣をさやから抜いたなら、それはもうもとには戻らないのです。旧約の時代は終わっていまは新約の時代だから、旧約のことは何も関係ないと唱える人もいます。しかし、神ご自身が変わったわけではありません。今も昔も変わらず、罪に対しては厳しくさばかれるおかたです。人は死後にさばきを受けることは神の摂理です(ヘブ9:27)。キリストを信じたからといってさばきが免除されるわけではありません。しかし、義なるイエス・キリストがそばに立って弁護されるゆえに罪には定められないのです(1ヨハ2:1)。