主の限界?

イザヤ50:2「なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか。見よ。わたしは、しかって海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える」
イザヤ59章にも同じように「主のみ手が短くて救えないのではない(イザ59:1)」とあります。誰が万能の主に制限を設けるのでしょうか?それは人の信仰のなさ、だと思います。最後まで信じることができれば、待ち望むこともできるでしょう。「もう主はわたしのことを覚えていないのだ。忘れられたのだ」と思い始めたらサタンの思うつぼです。人と待ち合わせたとき、どのぐらいなら待ちぼうけを許せますか?インドの人たちは3日ぐらいその場所で待つそうです。時間の感覚が日本とはまったく違っているらしく、日本人は数分の遅れでもイライラする人たちがいます。それでも必ず来るなら待つことはできるはずです。主は約束を必ず守るお方だと知るなら、いのちの続く限り待ったとしても損はしないと思います。御言葉は必ず成されます。主が言葉を違えないお方だからです。