ダビデのかぎ

イザ22:22「わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない」
ダビデのかぎを持つ人のことが黙示録に書かれています。「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない(黙3:7)」…とイザヤの預言と同じ内容で、明らかにイエス様のことを指しているのが分かります。黙示録ではフィラデルフィアに語られたことばの中にこの表現があり、フィラデルフィアの教会は主の御名を否まなかったことでほめられ、試練のときには守られる約束を得ています(黙3:10)。イザヤはダビデのかぎはヒルキヤの子エルヤキムに渡すと語っています(20)。エルヤキムが直接イエス様と関係しているかはわかりませんが、ここではシェブナとエルヤキムの2人が比較されています。シェブナは主の忠告を無視して、自分のやりたいように生きています(13)。そしてエルヤキムはダビデのかぎが与えられ、主の栄光が与えられるようになります(23)。もしエルヤキムがイエス様のことを暗示しているのなら、シェブナはイエス様と対抗する者の比喩だと思います。フィラデルフィアのように主のことばを守り、主の御名を否まなければ、その人たちのために天のとびらは開かれた状態になっているのです。