ようやく見つけた

雅歌3;2「『さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、私の愛している人を捜して来よう』私が捜しても、あの方は見あたりませんでした」
1節では床についてまでも愛する人を探すと書かれています。もちろん比喩ですが、寝ても覚めても…とはこのことだと思います。眠りから覚めて、いよいよ外に出て行き愛する人を探します、それは夜回りの役人が役目に付く頃まで続き、不審者なみの行動です(3)。夜回りは夕方6時に、日が暮れると同時に始まり、3時間ごとに交代し、夜が明けるまで見回りは続きます。本来、日暮れとともに仕事を終えて、女、子供が街をうろうろすることなどあり得ないことです。しかし彼女の心には、愛する人で満たされ、見つかるまで探さずにはいられなかったのです。主を捜し求めることも同じような感覚ではないでしょうか?預言者エリヤは、風や地震や火の中に主を見つけることができず、火の通り過ぎた後にかすかに聞こえた細い声を聞き、主を見つけることができました(1王19:11-13)。主は、大きく動く誰にでも目にとまるものの中にいません。主の語る声は小さく、心を静かにして聞かないと聞こえないのです。女は必死で愛する人を昼も夜も探しました。主を求める心は彼女のようでありたいものです。