栄光は輝き

出40:35「モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである」
すべての仕事を終え、幕屋のすべての準備が整ったとき、主の隣在が幕屋を覆いました(34)。モーセは主に会おうとしても、幕屋に入れませんでした。主の栄光が幕屋に満ちていたからです。「恐れ多い」とはこのことで、人は神に近づくことさえできません。それは、神の権威が強く、近寄り難いというのもありますが、主があまりにも聖なるお方であるために近寄れないのです。主を見たものは死ぬと言われています。ヤコブモーセも主の顔を見てなお生きながらえました。私たちクリスチャンはどうでしょうか?イエス様の血潮で罪のない者として数えられ、主の前に立つこと許されることと思われます。しかしその顔を見れるかどうかはわかりません。主の栄光があまりにも輝き、目がつぶれてしまうかも知れません。また、輝きが強すぎてその中の顔が見えない可能性もあります。まるで太陽に直接目を向けるようなものです。そのようなお方が人の創造主であり、ちりにすぎない人を救おうとなさるのは改めて不思議なことだと感じます。