約束の地に入らない

民32:5「もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください」
イスラエル人は40年間なぜ荒野をさまよわなければならなかったのでしょうか?それは出エジプトを経験した初代の民が罪を重ね、主の怒りを買ったからです。そろそろ40年が経ち、ファーストジェネレーションも死に絶えようとしているときの話です。ガド、ルベン族が声をそろえて約束の地に入らなくてもいい、と言い出したのです。自分たちには充分家畜があり、ヨルダン川の手前の土地、すなわち約束の地に入る前の土地は放牧に適し、自分たちはここで満足だ…というわけです。この行為はイスラエル人の意気をくじきました(9)。約束の地が天国だとするならば、この世に未練がある…と言っているようなものです。イエス様は地上に宝を積んではいけないと言われました(マタ6:19)。地上の宝は虫が食い、錆びていくものです。ガドとルベン族の民は約束の地の本当の意味を知らなかったのでしょうか?40年もの長い旅は人の忍耐力を奪い、判断力を鈍らせてしまったのかも知れません。主の祈りの答えが長いとき、「もう、どうでもいいや」と思い始めることがあります。ところが、主は最後まで忍耐し、希望を持ち続ける信仰があるかどうかを試しておられるのです。永遠に続く主の栄光より、この地の快楽や宝のほうがよく見えてはいないでしょうか?