裁かないように

1コリ4:3「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません」
裁きはときによって、人の権利を制限するものになります。裁判制度は人が確立させた平等な意識の表れですが、どの国でも完璧に行なわれていることはありません。人が判断することには、間違いがあり、時には冤罪ということもあり得ます。現代の刑事事件を裁くには証拠が必要です。血液、指紋、DNAなど人固有の証拠が、被告のものと一致するなら、犯罪を確定することができ、罪の重さに応じて刑罰が判断されます。動かぬ証拠があっても、本当のことはわかりません。人が人を裁くのには限界があるのです。唯一、神の裁きだけは揺るぐことのない真実の判定ですから、できることなら裁判官は神であって欲しいものです。すべてのことはあきらかにされる、と書かれています(5)。今は悪者が勢力を広げ、罪が世界を覆っている時代です。しかし、それはやがて来られる主の栄光が輝くために、神が用意された堕落の様子です。堕落した姿を見なければ、購われた姿を想像することもできません。罪はそのためにあるのです。暗闇があるから輝きが、まぶしく感じられるのです。主の裁きが栄光で輝くためには、クリスチャンが裁きをやめなければなりません。なぜなら、人の裁きが難しければ難しいほど、主の裁きが輝くからです。