実現したみこころ

イザ53:10「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる」
人は不完全です。不完全なものにいのちを捧げ、捨てるならそれは愚かな行為だとみられるでしょう。人は誰でも価値あるものに心が引かれ、その価値を得ようと努力します。人が神のために死ぬのはあり得ることです。しかし、神が人のために…となると、「どうして?」という気持ちになってしまいます。自分のことを考えれば、自分の醜い部分や汚い部分がいかに多いかがわかります。にもかかわらず、主はご自分のいのちを人に捧げたのです。それが「愛」だと人は言います。愛は形がないですから、どのようなものかを見ることができません。「愛はすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます(1コリ13:7)」…愛の章にはこう書かれています。神は人を信じ、期待し、忍耐しておられます。わたしたちは罪ある者なのに、罪のない者にされ、主の栄光の輝ける姿にまで変えられていくのです(2コリ3:18)。そのために「彼」は砕かれ、痛めつけられたのです、ここではそれが「みこころ」であったと書かれています。愛は実践されてはじめて、気づいてもらえるものです。主の愛は実践されました。あとはわたしたちの番です。