とりなす者がいない

イザ59:16「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた」
主を支えられる人間などいるわけもありません。それでも、人の救いのためにとりなす者がいてもよさそうなものです。とりなしとはアブラハムがソドムとゴモラを滅ぼしに行く主に対して訴えたあの訴えのようなものです。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません(創18:32)」…アブラハムのとりなしもむなしくソドムとゴモラの町は滅びてしまいました。アブラハムの訴えた「十人」の正しい人がそこにはいなかったからです。このような訴えをする者は二度と現れなかったのだと思われます。原文では「義」は「tsedaqah(セダカ)」となっており、正義とか正しい判断とも訳せます。ご自分の御腕で、正しいとされることを行ない、その行為がご自分の支えとなったと書かれています。主と同じ判断をする者がいかにこの世にいないのかを痛感させられます。ある意味それは仕方のないことだと思います。心に飢え渇きを持ち続け、主の前で祈り続けられる人はいないからです。それゆえに、イエス様ご自身がその役割を担い、地上に来られ、自らの祈りと自らのいのちを持って、主の「義」を守られたのです。救いはわたしたちだけでなく、主にとっても支えになっているのです。