微妙に違うニセモノ

士18:30「さて、ダン族は自分たちのために彫像を立てた。モーセの子ゲルショムの子ヨナタンとその子孫が、国の捕囚の日まで、ダン部族の祭司であった」
聖書の言葉通りならば、ダビデの幕屋のときも、ソロモンの神殿のときも、ずっと独自の礼拝を行なっていたことになります。しかも契約の箱ならぬ、自分たちで作った彫像をシンボルとして礼拝を捧げていたようです。ダン族の抜かりのないところは、レビ族であるゲルショムの子孫を押さえていたことです。本来、彼らは幼年期から祭司職の訓練を受け、30才で祭司の職務につき、50才で引退するという人生設計が主から与えられています。その中から数人の引き抜いて、ダン族専用の祭司としたのです。しかも捕囚の日までとありますから、1代限りではなく、何世代にもわたってダン族に仕えたことになります。主を礼拝する部分は正しいとしても、そのやり方やダン族だけの礼拝は、他の部族より出し抜いてやろう、あるいは優位に立ちたいという考えが支配していたことはわかります。同じ神を礼拝するにしても、こうも違うものかと認識させられます。結局、ダンの名前は部族から消え、レビ族が数えられるようになりました。その背景には、同じ神を崇めているようで、微妙に違う要素を混ぜていこうとする異端の発想とよく似ています。モルモンや統一教会など、キリストの名を語っていながらニセモノなのは、ダン族の犯した過ちにそっくりではないでしょうか?