ダビデの前に現れた二人

1サム26:10「ダビデは言った『主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ』」
25章ではならず者ナバルを自らの手で殺そうとしたのに、サウルに対する態度とあまりにも違いがあります。それほど油注がれた者は意味があるのでしょうか?実はナバルの場合もダビデは罪を犯そうとしていたのです。自分の考えで判断し、自分の裁きで人を殺めようとする行為は神の領域を犯すものです。ナバルの妻アビガエルは自分の夫ナバルの安否を心配したこともありますが、ダビデに罪を犯させないように配慮したことのほうが目に付きます。ダビデたちはナバルの領地の中で、働く者たちを護衛し、略奪することなくむしろ平和であるように努めました。確かにナバルの言ったことは無礼であり、ダビデたちをバカにしたような態度はダビデとしては許しがたいものだったと思います。しかしアビガエルの言葉に心が動かされ、思い直すのです。ダビデはサウルの最後もどうなるかを知っていました。決して主が油注いだからといって、完璧ではないことを理解していたのです。それでも自らが手を下しサウルを殺めることはできなかったのです。ナバルとサウル、どちらもダビデにとって厄介な存在だったことには間違いありません。主がすべてを支配し、彼らをダビデの前に置かれていることをダビデは学んでいくのです。