賛美が余興?

詩137:3「それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ」
詩篇がどういう基準で編纂されたかはわかりませんが、前の136篇と比較するならまるでニュアンスの違う詩だと思います。前篇は時代背景が約束の地に入ったまでで止まっていますが、この詩はバビロン捕囚に会い、しかも70年後に一時帰国したときに歌ったものだと思われます。出エジプトから約束の地に入り、ダビデの時代に連戦連勝し、喜び感謝にあふれる都上りの歌とはイメージが一転します。バビロニアの兵士たちもイスラエルは賛美が盛んで、楽しく美しい歌が多くあることを知っていたのでしょう。それゆえ、余興にシオンの歌を歌え、と命じたのです。それは主を賛美する歌が、まるで遊びごとのようにバビロニアの人たちには思えたからです。イスラエルの賛美はダビデの時代に最高潮に達し、合唱の技術や楽器の巧みさは、聖書の中でも賞賛されています。しかし、それらは決して遊びごとではなく、真剣に主を求める賛美だったのです。それを余興にされることは、ある意味主を冒涜されたに匹敵する扱いでした。異国の地で異国の神のいる前で、イスラエルの神を賛美する歌を歌えようか(4)、と嘆いているのです。自由に賛美できないときにその思いをさらに賛美に変える…イスラエルの信仰を見習いたいものです。