詩篇124篇 もしも主が私たちの味方でなかったなら

詩124:2「もしも主が私たちの味方でなかったなら、人々が私たちに逆らって立ち上がったとき」
ダビデが考える「もしも」の例えです。もちろんダビデ自身はそのようなことがあり得ないことを十分理解したうえで、イスラエルに向かってこの例えを詩にしています。その例えは「主が私たちの味方でなかったなら」というものです。逆に言うならば、主は常に私たちの側に立ち、守り、助け出してくださるという意味です。ここでは、もし誰も自分を擁護してくれなければ、「生きたまま飲みこまれる(3)」という表現を使っています。もし、何のご加護もなければ、怒りの大水に押し流され、濁流に流されるままになってしまいます(4)。なぜダビデはこのような詩を歌ったのでしょうか。それは「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある(8)」という結論を導き出すために使われた、ダビデオリジナルの比喩法だと思います。ダビデは怒りの大水に押し流されそうになっても、「わなは破られ、私たちは助け出された(7)」とあるように、主によって助けられた経験を比喩の中に織り交ぜているように感じます。その経験があるからこそ、「ほむべきかな。主(6)」と賛美することが出来るのです。この詩が、エルサレムに行けずに落胆するユダヤ人たちにどれほどの希望を与えるものでしょうか。もう一度エルサレムにのぼうろする人への応援歌にも聞こえます。