アダムとエノシュ

詩144:3「主よ。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」
詩篇8編にほとんど同じ言葉が語られています(8:4)。それぞれ「人」「人の子」が何者なのか、と問いかけています。原文ヘブライ語では詩篇8編のほうでは人が「enowsh(エノシュ)」となり人の子は「ben adam(ベン アダム)」となっています。この144編では表現が逆です。つまり最初の「人」は「アダム」となっており、次の「人の子」は「ベン エノシュ」が使われているのです。アダムは「土」からの派生で、エノシュは「弱い」から派生した言葉でともに人を表わします。エノシュはアダムの孫にあたり、彼の時代から人は神の名によって祈ったと書かれています(創4:36)。一般的に人を指すヘブライ語はアダム(他にイーシュ、ゲバルも使われる)が使われ、エノシュが使われる場合は同じ人でも「死すべき人」となりニュアンスが変わってきます。ダビデがここで歌ったことは、取るに足りない人をなぜ覚えておられるのか、そして死ぬべき存在の人の子孫、つまり私たちのことをなぜ気遣ってくれるか、という意味になります。人は息のようで、その日々は影のようです(4)。人生はあっという間に時間は過ぎ去り、たどった道がどんなに険しくてもすべて忘れ去られていきます。それでもひとりひとりを覚え、気に留めてくださるのなら主の愛はどんなに大きなものなのでしょうか。