神であって人でなく

ホセ11:9「わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない」
神というヘブライ語は「elohiym(エロヒム)」か、新改訳では太文字の「主」と訳されている「Yehovah(エホバ)」が使われるのがほとんどです。ここでの神は「'el(エイオ)」で日本語で「エル」「エレ」と発音されているものです。「アドナイ・イルエ(創22:14)」のイルエの部分です。一方、人は「adam(アダム)」か「iysh(イーシュ)」が使われ、アダムは創造の子、約束の子という意味で、神との約束や特定の神の人を指すときに使われます。ここでは一般的なイーシュが使われており、いのちに限りのある死すべき存在としての人を指しています。その死すべき存在の中に聖なる存在としておられるというのは驚くべき表現だと思います。「内に」というのは「qureb(ケレブ)」という言葉が使われており、「真ん中に」とか「内側に」という意味です。人が単数形であるなら、ひとりひとりの中に聖なる神がいてくださるということになり、もし複数形ならイスラエルの民の中にいつも目を注いでくださる存在がある、という意味になります。いずれにしろ、神がいつも外にいて人が罪を犯すのを見ているという概念は間違いです。あわれみ深く、怒るのに遅い主はいつもイスラエルの民とともいたのです。