血の責任

使20:26[ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません」
パウロがエペソの長老たちを呼び寄せたのは、これが最後の会話になるかもしれないからです(25)。そして、最後に言うべき言葉の中に「私にはさばきについて責任がない」と宣言するのです。原文ギリシャ語では「さばき」は「haima(血)」となっており、「人が受ける血について私は潔白だ」というニュアンスになります。パウロ自身が証言しているように、パウロ聖霊に導かれて伝道の限りをつくしました(23)。もし、人間的な思いや計画で地方を回り宣教したとしても、どこかを抜かしたり、忘れたりするものです。しかし、聖霊が導いたとなると彼には選択権がありません。ただ導かれた場所で最善を尽くすだけです。そういう意味においては、彼は宣教をやり遂げたという確信があったのだと思います。使徒として教会を立ち上げ、いまエペソの長老を前に福音を述べ伝える全権はあなたがたにあるのだ…と宣言したのです。つまり、もはや私の仕事ではない、神の教会が立て上げられた以上、その場のリーダー、長老たちに責任は移譲したと言っているのです。投げやり?…聖霊が導いた以上、そんなことはないと思います。福音を信じなかった人がいて、さばきを受けるようになってもパウロの責任ではありません。世の初めから救われる人は「いのちの書」に書かれています(黙20:15)。それを私たちが知るよしもないのです。