罪の増し加わるところには

ロマ5;20「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」
律法がなければ罪はありません。ルールがなければ、何に違反したかが曖昧になってしまうからです。罪がなければ、恵みも理解できないでしょう。すべてが「善」ならば、「悪」というものはなくなってしまいます。天地創造の最初に「やみ」と「おおいなる水」があったと書かれています(創1:2)。やみがなければ光は輝くことができません。また、アダムがいなければ、イエス様が地上に来る必要もなかったでしょう。これらすべては、あるものを目立たせるために、もう片方が必要になる…という聖書の大原則です。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」という発言は誤解を招くものです。それゆえパウロはすぐに「罪にとどまるべきか?(6;1)」…と自問し、「絶対にそんなことはない(6:2)」と自答しているのです。苦難が苦しければ苦しいほど、そこから救い出されたときの解放と喜びは増し加わります。「少ししか赦されない者は、少ししか愛しません(ルカ7:47)」とイエス様が言われたとおりです。罪にとどまるならば、恵みを体験することなく人生を終えてしまうでしょう。罪から離れたときに、恵みは際立ち、主の愛が示されるようになるのです。罪は主の栄光を輝かせるために不可欠な要素です。