肉の思いと聖霊

ロマ8:7「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」
肉の思いの「肉」はギリシャ語では「sarks(サラックス)」となり、新約の中に147回登場します。一番最初に出てくるのはペテロがイエス様に「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白したときに、「このことをあたなに示したのは肉と血ではなく、天にいる私の父です」と答えられたときです(マタ16:17)。新改訳では「肉と血」ではなく「人間」と訳されています。ヘブライ語では人のことを「アダム」か「エノシュ」で表記しますが、「エノシュ」というのは死すべき人という意味で、人が死ぬべき存在だという言葉になります。人は肉のゆえに生まれながらにして神に逆らうものとされました。すべての人が肉体を持っている以上、この原理が崩れることはないでしょう。たとえクリスチャン同士が結婚し、子供が生まれたとしても、その子供を放置しておくなら神に従わないものになってしまいます。誰かが神を紹介し、神に出会う体験をしなければクリスチャンになることはできません。ただ生まれてきて死んでいくだけです。しかし、皮肉なことに神を知り神の定めた律法を認識したときに、自分は死ぬことを自覚するのです。律法は罪を示し、罪は死をもたらすからです。神に服従できない肉体をもって、神に従うには神ご自身の助けなくして不可能です。聖霊を受けることにより初めて神に従うスタートラインに立てるのです。