人の建てた宮ではなく

2歴6:18「それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです」
神の神殿という概念はキリストの十字架とともに変わりました。まず、罪のためのいけにえをいちいちささげる必要がなくなりました。旧約時代のいけにえは、どんなに繰り返し捧げたとしても、それらは決して罪を取り去ることはありません(ヘブ10:11)。しかしイエス様がたった一度だけ罪の購いのために死なれたゆえに、人類が祭壇でいけにえを捧げ、主に許しを乞う必要はなくなったのです。それでは神殿はどうなったのでしょうか?AD70年にローマ軍により破壊された神殿は今も復興していません。パウロは「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたに宿っておられる(1コリ3:16)」と言い、神殿の具体的な姿はキリストを信じるクリスチャンそのものだと教えています。また「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます(詩22:3)」ともあるように、クリスチャンがただいるだけでは主が住まわれる要素を満たしていません。クリスチャンが集い、各々が救いを受け入れ御霊を宿し、なおかつ賛美し礼拝するのです。主が住まわれる神殿は「教会」という建物ではありません。信じる一人一人の信仰と礼拝の姿こそが主の神殿になりえるのだと思います。